第3章 鬼 神

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▼中 扉

【鬼 神】 このページの目次
 ・鬼神 ・房総鹿野山の鬼阿久留王 ・東北岩手山の鬼
 ・大猛丸 ・北ア有明山の魏石鬼 ・北ア常念岳の常念坊
 ・東北安達ヶ原の鬼女 ・長野県戸隠山の鬼女紅葉
 ・奈良県大峰山の前鬼後鬼 ・京都大江山の酒呑童子
 ・三重滋賀県境鈴鹿峠の鬼

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■鬼 神

 冷血無情な人をよく「鬼のような」といいます。また「地獄の鬼」、
「鬼の目に涙」などのたとえもあります。かと思えば鬼は「福は内、
鬼は外」と豆で追い払われたりもします。絵などで見るその姿は、
裸で虎皮のふんどし、頭に角、裂けた口には、鋭い2本の牙、手に
はトゲトゲのついた鉄棒を持っています。

 ではオニとは何んでしょうか。鬼は、平安時代の漢和辞書「倭名
類聚抄」に「鬼ハ物ニ隠レテ顕ハルコトヲ欲セザル故ニ、俗ニ呼ビ
テ隠ト云フナリ」と書かれているように「隠・おぬ」から転訛した
のだという。またそれとは別に、「オ」は「御」で、「ニ」は尊敬畏
怖をあらわすのだという説もあります。

 鬼は中国ではもともと死者の霊魂のことでありました。漢代の王
充の「論衡」論死編に「鬼(き)は帰(き)なり」「神(しん)は
伸(しん)なり」とあるそうです。「鬼は帰なり」は、人間の霊魂
は肉体が死んだら天に帰るという意味で、「神は伸なり」とは、万
物を引き伸ばす天の不思議な働きを神というのだそうであります。

 後漢になると、インドから仏教が伝わりました。それに影響され
「鬼は畏(い)なり、また威(い)なり…」と鬼の概念は、怪異な
性格までも加わりました。その後、日本に伝わってきます。

 日本にも鬼の観念はありました。「日本書紀」では「鬼神・あし
きかみ」「邪鬼・あしきもの」と出ています。朝廷に従わず反乱す
る地の人のことです。

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 倭名抄では隠れて人間に見えない精霊だと考えられ、万葉では鬼
の字を醜(しこ)と訓じたりしています。そんなことから上代では
鬼というと、こわい異族、超人、亡者などをさしていたことがわか
ります。

 それが仏教が伝わり、その影響によって神性さがなくなり、奈良
時代も800年代になると、鬼は凶悪な積極さを持ちはじめ、その
概念もがグンと変わってまいります。餓鬼や疫鬼なるものが現れ、
平安時代(9〜12世紀)ともなれば、地獄には地獄卒という赤鬼、
青鬼、牛鬼、馬鬼までがあらわれるしまつ。

 このような鬼の観念がエスカレートしていき、鬼の数が増してい
きます。仏教の羅刹(らせつ)や夜叉(やしゃ)とも習合され、ま
た陰陽道とも混同します。鬼門などがそのひとつです。さらには「百
鬼夜行」にまでなってまいります。

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 鬼の姿・形にしても同様です。はじめは蓑(みの)を着て身体を
隠し、大笠で顔も隠していた祖霊が鬼の姿でした。それがいつのま
にか、身の丈8尺〜9尺(約2.7m)にも達するようになり、夜
叉のように髪をふり乱し、体は赤黒く、サルの目のような金壺眼で、
ものいわぬ異形な姿と表現(鎌倉時代中期の説話集「古今著聞集」)
されるようになってしまいました。

 その後いろいろな英雄伝、昔ばばしから次第に鬼の観念は固定し、
陰陽道の影響も受け、丑虎(うしとら)の方を鬼門とし、そこに鬼
が集まるというので、鬼の頭を牛に、腰から下を虎の形にかたどる
ようになります。そういえば今の子どもの絵本にも、頭には牛の角
が生え、虎のパンツをはいています。このように鬼神は時代の流れ
にしたがい、いつの間にか悪鬼にさせられてしまったのであります。

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鹿野山の鬼・阿久留王

 房総丘陵の北端に位置する鹿野山(かのうざん)は、352mと
いう標高に似合わず、南東部の浸食は深く、九十九谷を形成してい
ます。山頂は、東から白鳥峰、熊野峰、春日峰の3峰に分かれ、熊
野峰には聖徳太子開基(山頂にある真言宗の神野寺(じんやじ)の
寺伝によれば、推古天皇6年=西暦598年9月、聖徳太子が、調
子丸舎人(とねり)と大伴田力丸を従え、黒駒に跨り富士山に登り
信越を廻ってのち、当山が仏法有縁の霊地であるとしてここに梵字
を構えたという)と伝える神野寺があります。

 その昔、ここ鹿野山のあたりには阿久留王(あくるおう)という
鬼(地方部族の王)が住んでいたのだそうです。阿久留王は、日本
武尊(やまとたける)に亡ぼされるまでは、このあたり一帯を治め
た製鉄部族の王だと伝えます。鹿野山は「金属が生まれる」と書く
「かのうざん・金生山」が語源で、金属を生む山の意味で製鉄に関
係する山だとの説があります。
 事実、このあたりには製鉄部族が住んでいたとされ鋸山麓に「金
谷」など金属に関係ある地名があり、同地区に祭られている鉄尊神
社(てっそんじんじゃ)には、鉄の円盤がご神体としてまつられて
います。事実、鹿野山山中で、鉄をつくる際に出る「カナクソ」を
この目で見たこともあります。そういえば日本武尊は製鉄部族をね
らって平定して歩いていたとされています。

 日本武尊と戦い、敗れた阿久留王は、鹿野山西方の鬼泪山(きな
だやま)まで逃げ、涙を流して命乞いをしたという。しかし、日本
武尊は許さず、そこで相当なことが行われたらしいといいます。そ
の証拠に鬼泪山北麓を流れる染川(血染川)は、王の血が3日3晩
にわたって流れた川といい、それが腐ってそそいだ所に東京湾の千
種浦(血臭浦・富津市千種新田)があります。染川の水源は鹿野山
の春日峰の蛇堀で、常に白蛇が棲み里人は近寄らないという伝説も
あります。

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 鹿野山の信仰の中心的存在である神野寺の本尊は薬師如来と軍荼
利明王(ぐんだりみょうおう)で、「軍荼利明王は鹿野山強賊悪楼
王(阿久留王)を祭る、日本武尊悪楼王征伐の後其の性暴悪なる故
に後世に祟をなさしめざるために此処に祭りたるべし」と「房総志
料続篇」にあり、阿久留王は軍荼利明王の垂迹神(すいじゃくしん)
だとしています。阿久留王とは鹿野山が聖徳太子に開創される以前
からこの山に祭られていた地神・神野大明神の神霊を擬したものだ
ともいう。

 この阿久留王を祭る塚が神野寺の東側、ゴルフ場向かいの杉林の
中にあります。数年前訪れたときには、製鉄の祖としてか地元の製
鉄関係者の人たちが塚の前に列び、神野寺の尼さんが経を読んで供
養の最中でした。

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東北岩手山の鬼・大猛丸

 岩手富士の異名のある岩手山(2038m)は雄大で、東北南部
地方のシンボルとして人々の心に生きる山です。その名は、ここに
住んでいた凶暴な鬼が改心し、その証拠に岩の上に手形を押し「岩
手」としたのがはじまりといいます。また現在、啄木記念館がある
岩手県玉山村渋谷地区の、突き出た大岩「岩出の森」、またアイヌ
語のイワァ・テェケ(岩の手・枝脈)にちなんでいるなどの異説も
あります。

 岩手山の外輪山内側の噴火口内の妙高山の東側火口に岩手山神社
奥宮があります。神仏混交の時代には岩鷲権現、田村権現、田村大
明神などといったという。岩鷲の名は、岩手山の異名である岩鷲山
からきたもの。田村、田村とつづくのは、社伝にある延歴20(8
01・平安時代初め)年、あの坂上田村麻呂が蝦夷を平定し、国土
安泰を祈願してここに神社を創建したという故事からでしょうか。
この権現様は獅子頭をご神体にするという。そういえば外輪山薬師
岳付近に石の獅子頭も置いてあります。

 岩手山は東西岩手山からなり、東岩手の外輪山にある薬師岳は、
この山の最高峰。強風に耐えてコマクサが咲き乱れています。山頂
の西下にはお苗代湖とお釜湖の2つの池があって、その南に連なる
外壁用屏風岩のヤセ尾根を鬼ヶ城と呼んでいます。
 昔、このあたりは、赤頭の高丸と異名をとる鬼・大猛丸(おおだ
けまる)の領地だったという。そのせいか山ろくの地名にも鬼の文
字が多く見られます。大猛丸は、岩手山の南西ろく渓谷葛根田にあ
る大岩屋・玄武洞(げんぶどう)を出城とし、雫石町大竹に本拠を
置いた鬼神です。大猛丸は名にし負う乱暴者で、悪事のし放題やり
放題。山麓を荒らし村人は困り果てていたとされています。

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 そのころ東北地方にやってきた征夷大将軍坂上田村麻呂は、人々
のうわさにのぼる鬼神を退治しようと、森ヶ岡(いまの盛岡)に陣
をしき、大猛丸を攻め立てます。大猛丸は奥の舘である岩手山の鬼
ヶ城にたてこもります。

 当時の岩手山は霧隠山ともいわれるほど常に霧深い山。舘の状態
や地形を知らない田村麻呂は手も足も出ません。そこで霧深い山に
は、同じ霧でと思ったのかどうか、配下の霧ヶ原太忠義という武将
らを山の裏側・いまの松尾村側から魔地川(現在の松川)沿いに登
り偵察させます。

 源太忠義の館の様子や地形の報告を受けた田村麻呂は、霧の晴れ
間を見はからい、一挙に攻めたてます。たまりかねた大猛丸は館を
後にして、秋田と岩手の県境にある八幡平(はちまんたい)に逃げ
ますが、ついに捕まり亡ぼされたということです。

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 伝説では、平安時代になったばかりの797年(延暦16)とも、
同じく807年(大同2)のことだと伝えるお話です。この鬼神・
大猛丸は朝廷に従わぬ、このあたりに住んでいた蝦夷(えみし)を
象徴し語りつがれています。

 こうして東夷を平定した田村麻呂は、いまの八幡平の八幡沼のほ
とりに全軍を集合させ、神威による戦勝を感謝して、ここに応神八
幡大神を勧請。応神八幡のシンボルである八本の旗を立てて武運長
久を祈願し八幡神社を建立しました。そしてこの地を去るにおよび、
地名を「八幡平」と命名したということです。いまでも八幡平の八
幡沼のほとりには「応神八幡」を祀る祠があります。

 岩手山から八幡平にかけてには、源太森、松川、松尾、寄木、時
森などの地名があります。源太森は、田村麻呂の部下源太忠義が物
見をした山で、松川は、魔の住む魔地川、松尾は鬼の出る境の魔地
尾、寄木は賊の集まる寄鬼、時森は賊の大将登鬼森だとの地名伝説
もあります。

 岩手山の鬼ヶ城は、その名の通り城壁のようなゴツゴツ岩。かす
かにふみあとがつづくヤセ屋根です。北に八ツ目湿原から遠く八幡
平、南に雫石への裾野が広がっています。お花畑の不動平に下ると、
急に人が多くなります。歩きにくい鬼ヶ城尾根より西岩手山お苗代
湖、八ッ目湿原のコースをとる人が多いらしい。

 お花畑の不動平から外輪山を一周できます。その時、帽子が風で
舞い上がり、はるか松川温泉の方に飛ばされていきました。ふり返
えると、噴火口内にある妙高山が、ケルンやガレでちょうど鬼の形
になっていました。

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▼北アルプス有明山の鬼・魏石鬼

 平安時代はじめのこと、北アルプス・中房温泉近くの有明山(2
268m)に魏石鬼(ぎしき)という鬼が住んでいました。魏石鬼
は自らを八面大王と名乗り、妖術を使って悪行を重ねていました。
朝廷から「この悪鬼を退治せよ」との勅命を受けた坂上田村麻呂は、
早速安曇野にやってきて、あれやこれやと作戦を練りますが、魏石
鬼もただ者ではありません。

 攻めようとすると呪術を使い空を真っ暗にし、ふもとに大きな石
を雨あられのように降らせます。田村麻呂もキラリと光る魏石鬼の
目をねらって矢を放ちますがさっぱり当たりません。

 田村麻呂は、なんとしても魏石鬼を退治したいと長野県栗尾村に
ある栗尾山満願寺に祈願します。満願の夜、仏さまからのお告げが
ありました。「山鳥の三十三の節がある尾羽で作った矢で射てみよ、
必ず大王を退治できるであろう」。

 そこで田村麻呂は、住民に公布して山鳥の尾を探しはじめました。
その話を聞いた矢村の若者が、妻からもらったという三十三節ある
尾羽を持参し田村麻呂に献上しました。

 聞けばこの若者は、父親を魏石鬼に殺された身の上だといいます。
甲子(きのえね)の年の甲子の月、甲子の刻の生まれといいます。
かつてある時、猟の際、捕らえた山鳥を助けたことがありました。
その後山鳥は、女性に姿を変えてやってきて若者のもとへ嫁いでき
ました。

 それから3年、田村麻呂が苦戦しているという話を聞いた妻は、
若者に三十三節ある山鳥の尾を田村麻呂に献上するように差し出し
ました。

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 田村麻呂はさっそくその尾で矢を作り、やっと八面大王を退治で
きたといいます。魏石鬼退治ができて喜んだ田村麻呂は、若者に矢
助という名を与え、一生の生活を保障する恩賞を与えました。

 しかし、翌日から妻は姿を隠していました。三十三節の尾羽は山
鳥の妻の尾だったのでした。「日本伝説集」という本では、矢は十
三節で、矢助は地元の有明村(いまの穂高町)に住む老人になって
います。

 八面大王の体は、一緒に埋めると生き返るというので死骸を切り
離されてバラバラに埋められ、いまでも頭を埋めた大王の宮、耳を
埋めた耳塚(穂高町)、首を埋めた首塚、足を埋めた立足などの地
名が残っているといいます。燕岳(つばくろだけ)(2736m)登
山道途中の合戦尾根の休憩所合戦小屋には側面には鬼の顔が掘った
臼があり、立て札に地名の由来も書いてあります。

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■北アルプス・常念岳の常念坊

 有明山の鬼・魏石鬼の子分に、常念坊という念仏を唱える鬼がい
ました。常念坊は親分が戦いに敗れると光の玉になって空を飛び、
まゆみ岳に逃げたという。やがて年の暮れになり、村に市が立ちま
した。大勢の人たちで賑わいましたが日も暮れて商人たちが店をた
たみはじめるころ、変わった身なりの坊さんが酒を買いにあらわれ
ました。

 みるとボロボロの衣に髪の毛を背中までたらし杖をついた老僧で
す。「五合徳利」を差し出し「5升入れてくれ」という。「お坊さん、
ご冗談を」と酒屋の親爺。「いいから入れてくれ」「こぼれても知り
ませんよ」。半分やけ気味に親爺が酒をついだところ、不思議なこ
とにこの徳利に5升の酒が入ってしまいます。坊さんはカラカラ笑
うと闇の中に消えていきました。

 それからは村の市がたつと、きまって老僧が酒を買いにあらわれ
るので、村人は山の鬼か化け物だろうとうわさしあいました。ある
年のこと、2人の若い衆が坊さんの後をつけ、居所を突き止めよう
としました。しかし暗がりの急な山道を年寄りとは思えない早さで、
霧の岩山へ消えていきました。「あれは八面大王が討たれたとき、
まゆみ岳へ飛んできた常念坊にちがいねえ」「そういえばまゆみ岳
へ行った猟師が、念仏の声を聞いたと言っておった」。

 それからというもの、村人はいつのころからかまゆみ岳を常念岳
と呼ぶようになったということです。いまでも常念岳(2857m)
山頂には、常念坊をまつった祠があり、かつては中に常念坊の石仏
がありましたがたびたび盗難にあい、いまは何代目かのものが鞍部
にある常念小屋に保管されています。

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■東北・安達ヶ原の鬼女

 平安中期の和歌集「拾遺集(しゅういしゅう)」に(陸奥国名取
の郡黒塚といふ所に、重之が妹あまたあり、ときゝていひつかはし
ける)「陸奥(みちのく)の安達の原の黒塚に鬼こもれりときくは
まことか」という平兼盛の歌があります。安達ヶ原は福島県二本松
市安達ヶ原で鬼女の伝説地。同地に建つ天台宗真弓山観世寺の境内
には鬼女が住んでいたという岩屋がや出刃包丁を洗ったという「血
の池」があり、近くに鬼女の墓といわれる黒塚もあります。

 観世寺の縁起によれば、奈良時代の神亀年間(724〜729)、
紀州熊野の僧・阿闍梨(あじゃり)東光坊祐慶がここの老婆に一夜
の宿を頼みました。夜中老女の部屋をのぞくと、死体がたくさん転
がっています。さてはこれがうわさに聞く安達ヶ原の鬼女だったか。
東光坊は逃げ出しますが老婆は鬼女の姿になって喰い殺さんばかり
に追いかけてきます。もうこれまでと思った時、行基作の如意輪観
音像に助けられたという伝説です。

 そもそもこの鬼女の名は岩手といい、京都の公卿屋敷の乳母でし
た。ある時姫が病気になり易者に見てもらうと「妊婦の生肝を飲す
べし」との判断。岩手は生き肝を探しに旅立ち、安達ヶ原の岩屋で
暮らしていました。ある冬の日に若夫婦がきて宿を借りましたが、
若妻が急に産気づいたため夫は薬を求めて出かけて行きました。

 老婆・岩手はいまが生肝を取るチャンス、と出刃包丁で若妻の腹
を裂き生肝を取りました。しかしこの若妻こそ昔別れた自分の娘で
あることがわかり、気が動転し鬼に化してしまったという。なお、
同じ黒塚伝説は埼玉県のさいたま市黒塚山大黒院にもあって、安達
ヶ原と内容が同じですが、僧を宥慶、場所を武州足立ヶ原としてい
ます。

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■北信・戸隠山の鬼女紅葉

 鬼女紅葉伝説のあらましです。
 その昔、信濃の国の戸隠山(1904m・長野県戸隠村)に紅葉
という鬼女が住んでいました。鬼女は時々人を取っては喰うため、
村人は恐れおののいていました。それは朝廷の耳にも入るところと
なり、帝は勇猛果敢な平維茂(たいらのこれもち)(平安中期の武
将)に鬼女紅葉征伐を命じました。

 維茂は早速信濃に入り戸隠山の山中を歩いていると、女性ばかり
でモミジ狩りの酒宴をしている席に出くわしました。維茂は不審に
思って従者をやり尋ねさせると侍女の老女は「高貴なお方です」と
いうばかり。

 維茂一行は、宴の邪魔になっては失礼と馬を下りて通り過ぎよう
とします。すると先の老侍女が出てきて維茂の袖にすがって酒宴の
席に誘います。断り切れなくなった維茂は美しい姫のすすめる酒と
美女の舞いに、いつしか酔いしれて眠り伏してしまいました。それ
を見届けた女性たちは山の中に姿を消していきました。

 そこへ八幡の神があらわれ、「姫と見えたのは実は鬼女紅葉とそ
の手下。そなたにはこの神剣を与える」と維茂を起こします。やが
て目を覚ました維茂は姫を追いかけ山中に踏み込みます。探し当て
られた姫はもはやこれまでと、すさまじい稲妻と雷鳴とともに姿を
あらわし襲いかかってくる鬼女。神にもらった神剣を振りかざしな
がら維茂は鬼女紅葉を退治したという。

 しかし、これは室町末期の観世信光作の能「紅葉狩」から派生し
た伝説で、ルーツはこの能から以前にさかのぼれないとされていま
す。

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■奈良県大峰山・前鬼後鬼

 全国各地の山々80〜90座を開山したと伝えられる役ノ行者小
角(おづぬ)。行者にいつもぴたりと寄り添い、その修行を妨げる
外敵を退けている2匹の鬼がいます。神社などの石像やお札などで
おなじみの前鬼・後鬼です。

 前鬼・後鬼は、仲のいい夫婦の鬼とも伝え、前鬼が赤眼といって
夫鬼、後鬼は黄口で女房だとされています。酒に酔い眼を赤くして
歌を唄う夫鬼を、黄色い口をあけて笑う妻の鬼の姿なのだそうです。

 この鬼たちは、もともと大阪市と奈良県生駒市の境にある、聖天
さんでおなじみの生駒山(いこまさん)(642m)に住み、旅び
とを襲った盗賊だともいいます。役ノ行者39歳、西暦672年(天
武元)の時、行者が修行のため同県平群町の信貴山(437m)の般
若窟に籠ります。

 すると、どうも行者修行の邪魔をするものがいます。見ると身の
丈3m、牙を生やした2匹の鬼でした。行者に見つかり慌てて逃げ
る鬼。それを飛天の術で追いかけ、生駒山の南東(奈良県側)で捕
えた行者は、二匹の鬼の髪をつかんで南西(大阪側)まで引きずっ
て行き、髪を切って鬼たちの妖力を封じ込めたという。その鬼を捕
まえた所が生駒市の「鬼取の里」、そして髪を切った所が東大阪市
の「髪切の里」で、それぞれ鬼取山鶴林寺、髪切山慈光寺があり、
地名伝説になっています。

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 こうして折伏された前鬼・後鬼の2匹の鬼は善童鬼・妙童鬼とも
称し、役ノ行者の身辺を守る従者になります。弟子としては行者の
第1号的存在ながら、いつも後輩としての末弟の位置に甘んじ、義
学から義賢……とつづく行者の系統とは関係なく、ただ献身的に仕
える行者の従者だったそうです。

 701年(大宝元)6月7日、役ノ行者がその母とともに昇天(の
ち仙人になって唐へ渡る)してからは、2鬼は大峰山中に前鬼の里
を開拓。自ら天狗に化身して役ノ行者の遺志に従い、大峰山を守護
したという。

 前鬼の里は、大峰山系吉野と熊野の境の奈良県下北山村にある小
集落です。近鉄吉野線大和上市駅から特急バス2時間半、さらに歩
いて3時間という所。大峰山脈・釈迦ヶ岳の南方の「太古の辻」か
ら東側にしばらく下った所。東南側が明るく気持ちよく開けていま
す。

 江戸時代までに5家にわかれ鬼熊、鬼上、鬼継、鬼助、鬼童の姓
を名乗り、合わせて五鬼といい、いまでも小仲坊(五鬼助氏)の上
段には、それぞれの屋敷跡が残っています。小仲坊の下段の平地は
キャンプ場になっています。

 最近建てられた、りっぱな50畳もあろうという宿坊。真新しい
畳と柱の臭い。公衆電話もあります。私が訪れた時、ご主人は留守
で新宿坊を勝手に使うようにとの貼り紙がありました。ほかに人影
もありません。それでは遠慮なく今夜は50畳の真ん中に大の字に
なって寝させてもらおう。

 石垣にかこまれた行者堂前の庭を、2mもある蛇が通り過ぎてい
きます。雌を気遣いながら通りすぎる姿が、仲が良かったといわれ
る前鬼・後鬼夫婦をほうふつとさせ印象的でした。

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■京都大江山・酒呑童子

 鬼といえば酒呑童子(しゅてんどうじ)を挙げないわけにはいき
ません。酒呑童子は酒顛童子とも書かれ大江山に住む鬼神。大江山
は「御伽草子」では京都府大江町と加悦町との境にある千丈岳の異
名のある大江山(833m)になっていますが、謡曲「大江山」な
どにごく都に近い記述のあるところから、別の大江山(老ノ坂)で
あったらしいともいわれています。

 さて酒呑童子は「御伽草子」では、越後の山寺育ちでしたが、多
くの法師を刺し殺し各地を放浪したのち、高野山を経て大江山に住
みついたとしています。酒呑童子は手下とともに山中の岩屋の城を
築き、都へ出ては財宝や美女をさらい、それを喰うというので都中
を恐れさせました。

 ある時、娘をさらわれた池田中納言からの奏上で、帝が源頼光に
酒呑童子退治を命じました。頼光は渡辺綱(わたなべのつな)、碓
井定光(さだみつ)、卜部季武(うらべすえたけ)、坂田金時の四天
王と藤原保昌(やすまさ)らを従え、山伏姿で出かけました。

 途中、住吉神・熊野神・八幡神が姿を変えた3人の老人に会い、
鬼が飲めば毒になるという「神便鬼毒酒」を貰い、鬼の城に入りま
す。策をはかり酒呑童子に酒を飲ませた頼光たちは、隙を見て酔っ
た鬼の首を落としますが、酒呑童子は首だけになっても襲ってきま
す。それでも六人の働きで手下もろとも退治、かすめた財宝や娘た
ちを連れて都に帰ってきたという筋書きです。

 この物語は、平安末期、大江山(「酒呑童子絵巻」などでは近江
の伊吹山)あたりが山賊の巣窟だったことから生まれた伝説だとい
い、絵巻・御伽草子・草双紙・浄瑠璃・歌舞伎などの題材にもなっ
ています。酒呑童子の名については、3歳のころから酒を飲んだな
どの酒好きからついたとのことになっています。
 しかし、異説もあり酒呑童子は「越後の産、奇怪なる行ひ多く六
歳の頃谷底に捨てられたる者」(「前太平記」巻二十)やその他の記
述から元は「捨て童子」ではないかといわれています。

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■三重・滋賀県鈴鹿峠の鬼

 三重県関町と滋賀県土山町の境にある鈴鹿峠も鬼女伝説のあると
ころです。この峠は伊勢と近江を結ぶ重要な道で江戸時代には五街
道のひとつでしたが、昔から箱根に次ぐ難所として知られていまし
た。ここには山賊が多く出没し、多くの通行人が被害にあったと「日
本略記」などの古書に記されています。

 やがて「鈴鹿山の立烏帽子(たてえぼし)」という山賊の名が伝
わり、なかには女盗賊がいたとする本まで出てきます。この話がや
がて坂上田村麻呂と「鈴鹿御前」のストーリーに発展していったも
のとされています。

 その時代で本の筋書きや鬼の名前が微妙に変わりますが、以下が
大ざっぱな物語です。昔、この峠に鬼女(立烏帽子、鈴鹿御前、鈴
鹿姫ともいう)が住んでいました。鬼女は峠にたびたびあらわれ、
通る旅人を襲うため、天皇が坂上田村麻呂には鬼女退治を命じまし
た。行ってみると峠には御殿があって、美しい姫が侍女にかしずか
れています。

 それを見た田村麻呂は美女に話しかけ、近づこうとします。美女
は「嬉しいが私には夫鬼がいます。殺してくれればあなたの妻にな
ります。」妻の手引きで田村麻呂はまんまと夫鬼を殺すことができ、
美女に化けていた鬼女も退治したということです。

 しかし、別の説では、鬼女と田村麻呂はお互いを深く愛するよう
になり、一緒に京へ向かいましたが、鬼女はそこで捕まり処刑され
ることになってしまいました。だが処刑の寸前、妖術で姿を消しま
す。その後、田村麻呂麻呂も姿を消したしまったという話も残って
います。いまではこの峠の守り神になっているといわれます。

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(第3章終わり)

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