第2章 山の妖怪

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▼中 扉

【山の妖怪】 このページの目次
 ・一本ダタラ ・河童 ・デーラン坊 ・手長足長
 ・土蜘蛛 ・猫又 ・山人 ・怪人 ・雪女

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■一本ダタラ

 一本ダタラは一本足の妖怪で、近畿や四国地方に多く出る妖怪と
も鬼神だといいます。よく雪の降る日に出るとされ、雪の上に一本
足の穴の足あとが残るといいます。

 奈良県大台ヶ原近くの伯母ヶ峰(1262m)の一本足妖怪は、
背中にクマザサが生えたイノシシ「猪笹王」の亡霊だそうです。そ
れが伯母ヶ峠で射馬兵庫(または弓場兵庫守という)武士に退治さ
れてからは鬼神となって旅人を襲いつづけたといいます。そのため
東熊野街道は廃道同様になってしまいました。

 その後、丹誠上人が伯母ヶ峰の地蔵さまを勧請し妖怪を封じ込め、
経堂塚に経文を埋めてからは再び旅人が通れる街道に復活したとい
います。ただし、毎年、ハテノハツカ(12月20日)だけは鬼神
が自由になれる日になっていました。そのため、その日は伯母ヶ峰
の厄日で村人は警戒したのだそうです。

 いま伯母ヶ峰周辺は大台ヶ原ドライブウエイが走り、笹猪王退治
の武士が活躍した伯母ヶ峰峠は紅葉などを楽しむクルマやバスで賑
わっています。数年前大台ヶ原から大杉谷に抜けるためにバスで通
りましたが、どこが峠か分からないままでした。

 また奈良県と和歌山県の境にある果無山にすむという一本ダタラ
は、一つ目で1本足の怪物で、目が血のようで、ハテノハツカにな
ると出没して峠を越える旅人を襲って食ったという。そのためその
日は人の往来がナシだった。果無山のハテナシはそこからきている
と「山人の記・木の国果無山脈」(宇江敏勝著)にあります。

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 それより北方、奈良県十津川村(とつかわむら)と野迫川村(の
せがわむら)との境の伯母子岳(おばこだけ)(1344m)にも
美しい女に化けて旅人を襲って食べる1本足妖怪の伝説がありま
す。ある時、高野山の西の天野の猟師が山中で女に出会いました。

 鉄砲を撃っても弾を手で受け止め襲ってくる妖怪。猟師は高野山
の鎮守神に教えて貰ったとおり二つ弾を撃ちました。さすがの化け
物も後の弾に気がつかず命中してしまいました。

 女は「助けてください」と命乞いをしています。「人の命をとら
なければ助けてやる」というと、「全然とらなければ喰うものがあ
りません。ハテノハツカだけはここを通る人の命を貰いたい」との
願いに、猟師は「1日くらいならいいだろう」と許してやったとい
う。そのため今でもハテノハツカ(12月20日)には山へ入って
はならぬという昔話があります。

 伯母子岳や果無峠は高野山から熊野に抜ける重要街道だった小辺
路(こへじ)の路上にあり、世界遺産にも登録された熊野古道のひ
とつ。遺産登録の数ヶ月前、高野山から小辺路を歩きました。

 朝からの小雨が伯母子岳山頂で雪に変わり積もりだすしまつ。展
望どころではありません。仕方なく伯母子峠に建つ避難小屋で「雪
宿り」。東京から来たというツアーの一行と一緒になりました。

 その日は五百瀬(いもぜ)集落を通り越し三浦峠手前の、床が抜
けてさっきまでタヌキかキツネがすんでいたような掘っ建て小屋の
中にテントを張りました。

 翌日は快晴。三浦峠は積雪で真っ白でした。山道に入ると、朝日
に融けただした雪が木の枝から落ちてきます。人っ子ひとりいない
静かな果無峠。

 壊れた宝篋印塔(ほうきょういんとう)の屋根が土台ごとつぶれ
無惨です。きのう伯母子岳で4月4日、果無峠で4月5日。季節は
違うものの何となく日にちが気になりました。

 ちなみにこのような片足の神の伝承は各地にあり、山の神は片足
だというところもあるそうです。高知県室戸の片足神には「あしな
か草履(ぞうり)」を片方分だけ奉納する習慣があったそうです。

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■河童神

 水の妖怪河童を山の妖怪仲間に入れるのは不自然かも知れません
が、山中にも川もあれば淵もあります。まして山奥の大きな峡谷に
は河童の好む砂地があちこちにあり、実際に河童を見たという猟師
の話もあります。
 河童は身長が四,五歳の子どもくらいで、クチバシと手足に水か
きがあり、背中には甲羅があって、そのほかの体はウロコでおおわ
れている……。キュウリと相撲が好きで、頭に水をたたえる皿があ
ってイタズラもの……と相場がきまっています。

 陸上でも力は強いですが水の中では特に強力で、人間ナンカはも
ちろんのこと、馬や牛でさえ引っ張り込んで、肛門に手を入れ、尻
子玉(どんな玉だか知りませんが)を抜くといいます。おまけに生
き血まで吸うという、とんでもない妖怪です。

 河童伝承は全国にあり、地方地方でその呼び名も多くあります。
西日本ではガタロ(川太郎)、中国地方ではカワコ(川子)、エンコ、
エンコウ(猿候)、九州ではガワラッパ、やまわろ、東京地方では
メドチ、ミンツチ、能登のミズシン、そのほかカワランベ、ガメ、
カワシソウ、水虎などなどなど……。

 河童は大ムカシは「ミズチ」と呼ばれ、漢字で?(みずち)(き
ゅう)と書き、水の霊のことだったそうです。すなわち、水の神で
あり、農耕などにはかかせない神なのであります。

 あの「日本書紀」の仁徳天皇十一年の項に備中川嶋河で、毒をは
いて人を苦しめるミズチがいてそれを退治したとあります。

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 ならば河童イコール水神かというと、そうでもありません。豊か
な実りと多産の力を持つ母なる水神が、下界に使わし送られた悪童
なのだそうです。

 そういえば、河童の好きだとされる相撲は、稲作儀礼として行わ
れるお田植え祭や新穀祭の行事のなかで「ひとり相撲」なるものも
催されます。目に見えぬ田の精霊を相手にひとり取り組む姿をテレ
ビで見たことがあるでしょう。

 しからば河童とはいずこから来たのでしょうか。これには大きく
分けて三つに分けられます。人形化誕風渡来説(ひとがたかたんふ
うとらいせつ)、牛頭天王(ごずてんのう)の御子神説(みこがみ
せつ)、そして水虎説(すいこせつ)というものだそうです。

 まず人形化誕とは、昔おこなった、疫やけがれや難を人形に託し
川などに流すやり方です。これはいまでも流しびなとして残ってい
ます。流しびなは、ひな祭りの古い形でけがれをひなに託して流し
たものです。その流された人形が、川の中で生まれ変わり河童に化
したのだという説。

 また神社の築造の時、人手が足らず、大工が木片やわら人形に生
命を吹き込み加勢させ、一夜で建造させたという物語があります。
神社完工後、人形たちを川に捨てたという伝説からこれが水中で河
童になったともいわれています。人形化誕に渡来説もくっつきます。

 河童はその昔、唐天竺(からてんじく)の黄河に大部族をなして
いたという。その一部族が海を渡り九州に渡りました。族長は九千
坊といい、その名のとおり、一族九千匹に達する繁栄ぶり。

 田畑は荒らす、女性や子どもをかどわかすというイタズラのし放
題。それを聞いて怒った肥後の守・加藤清正。猿を使って責めたて
ます。河童はあえなく降参し、わびを入れて水天宮につかえたとい
う言い伝えもあります。

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 牛頭天王の御子説。インドの祇園精舎の守護神だった牛頭天王、
日本に伝来すると御霊信仰と習合し、疫病の神ともみられるように
なります。この御子神の系統に深淵之水夜礼花神(ふかぶちのみず
やれはがみ)という、なにやらイミシンなる名の神が生まれます。
これが水と穀物の神であり、河童なのだそうです。もう一つは、中
国から伝わった水虎の説も加わっています。

 いずれにしてもこのイタズラ河童の十八番、馬を水中に引き込も
うとする「河童駒引き」の話は全国にありますが、そのほとんどは
失敗談。逆に捕まって、わび証文を書かせられたり、特効薬の秘伝
を伝授させられたり、なんとなく愛嬌のある神サマではあります。
ちなみに嫌いな者は金物だそうです。

 河童で有名な岩手県遠野市では、カッパの捕獲許可証があり観光
協会で販売しているそうです。求める人も多いそうで、捕まえそう
になったが残念ながら逃げられたという報告もあったとか。ちなみ
に河童の捕獲場所は市内の「カッパ淵」に限られ、、捕まえたとき
には同協会の承認を得るなど七箇条が書かれているという。

 北アルプス黒部川の源流にカベッケヶ原というところがあります
(富山県大山町)。カベッケヶ原は「河化ヶ原」と書き、河童が化
ける意味だという。釣り人が、河童の餌になるイワナをあまりたく
さん取りすぎたため、仕返しに舌を抜かれたいう話や、夏になると
河童たちがガヤガヤにぎやかに盆踊りする……など数多くの話があ
ります。

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 事実、昔の黒部の猟師たちは河童をよく見たといいます。カベッ
ケヶ原の下流「立石」といわれる付近でも、河砂に残された3本指
の「河童の足跡」がたくさん発見されたことがあり、山小屋のご主
人が写真に撮っています。

 何年か前、ご主人にお会いし、印刷した写真を見せて貰いました
が、河原の砂に3本の指の跡がはっきり映っています。昭和35年
の8月のことだそうです。カベッケヶ原は雲ノ平から黒部川源流の
橋を渡り間もないところにありました。

 クマザサの生えたジメジメした平地で指導標が建っています。何
か痕跡はないものかと、物好きにもクマザサの中にもぐりこみます。
背丈よりも高いクマザサの中でガサガサやっていたら、通りかかっ
た登山者が後も振り返らず駆けだしていきました。

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■ダイダラボッチ

 昔巨人がやってきて全国を飛びまわり、富士山をつくる時、運ん
でいた土がもっこからこぼれ落ち、あちこちの山ができたとか、歩
いた足跡に水が溜まって池や沼になったなど話が数多く伝わってい
ます。

 巨人の名は大太法師でダイダラボッチと呼ぶのが一般名称。その
ほかダイタイボウ(茨城県)、ダイタボッチ(東京・埼玉)ダイダ
ラホウシ(栃木県)、ダイテンボウ(会津地方)、デイラボッチ(長
野県)、レイラボッチ(山梨県)、ダンダンボウシ(富山県)、ダタ
ンボウ(三重県)、ダイダラボウ(香川県)、ダイタボウ(愛知県)、
デーデッポー(千葉県)などとなまって呼ばれそれぞれ大男にちな
む地名伝説があります。

 この巨人伝説は「古事記」や「日本書紀」など神話にも出てきま
すが、奈良時代の「常陸風土記」那珂郡の条には具体的な地名が出
てきます。茨城県大洗海岸近くの大櫛という所に巨人が住んでいて、
海に手を伸ばし大ハマグリを捕って食べていました。

 その貝殻のたまったのがいまの「大串貝塚」だとしています。巨
人の足跡は長さ40余歩、広さ24歩(「日本未確認生物事典」に
よれば、長さ360mもあり、面積が40平方mもあり、オシッコ
をしたときにできた穴が40平方mあまり)というから半端ではあ
りません。

 南北朝時代成立の「神明鏡」(作者不詳)には「道場法師・大駄
法師」の名で記載され、下って江戸時代の「松屋筆記」(高田興清
著)巻五「ダイダラボッチの足跡」にも神奈川県相模原市の大沼は
ダイダラボッチが富士山を背負おうとし、足を踏ん張ったときへこ
んだ所だとあります。

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 巨人足跡は関東だけでも30以上あるといわれ、全国的にはどの
くらいあるでしょうか。たとえば東京都世田谷区代田の地名はダイ
ダラボッチのダイタだし、近年まであった同地代田薬師付近にあっ
た細長い窪地や、長野県の飯縄山麓の大座法師池、埼玉県さいたま
市の太田窪、長野県諏訪市の手長神社境内の1反歩ほど水たまりが
数ヶ所あり、みな大男の足跡だとされています。

 房総にも巨人伝説があります。デーデッポーは、富士山に腰をか
けて東京湾で顔を洗い千葉県側にやってきました。のっしのっしと
歩いているときエッヘンと咳払い。すると口から島が飛び出しまし
た。それが鋸南町から見える浮島のなったといいます。

 また昼寝しようとデーデッポは横になって寝ころんだところ足が
東京湾に届いてしまったという。その時富山町の富山を枕がわりに
したため、富山は真ん中がへこみ南峰と北峰の双耳峰になってしま
ったということです。

 その山麓にもデーデッポの足跡が残っています。先年スイセンロ
ードを歩いたとき足跡を訪ねようと市の職員の方に聞いてみました
がそこへ行く途中の道が荒廃して藪になっていて通れないとのこと
でした。

 この巨人をなぜ大太法師やダイダラボッチというのかについて、
江戸時代から「大太坊蹤(だいたぼうあしあと)」(山崎美成)や「大
太法師弁」(明和舟江)、「怪談几弁(かいだんきべん)」などで論じ
られていましたが結局は「愚量の及ぶところにあらず」ということ
になっているのだそうです。

 現代でもタラは貴人の呼称だとする説(柳田国男)、タタラと関
連して鍛冶屋の伝播説、アイヌ語のダイ(小山)とタラ(背負う)
で「小山を背負う」意味から生まれた巨人名。その他台湾の伝説か
らきているとか、はたまたギリシャ神話まで引っ張り出して説明し
ようとする説まであります。

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▼妙義・荒船山・八ヶ岳のダイダラボッチ

 昔、長野県と群馬県の山中に、とんでもない大男デエラン坊が住
んでいました。碓氷峠(うすいとうげ)を枕に足を妙義山(最高峰
相馬岳・1104m)に乗せて昼寝をするほど。

 そこへ妙義山のイノシシがやってきてヤマイモと間違えて大男の
足をかじりはじめました。怒ったデエラン坊は鍋にして食ってやる
とイノシシをひっ捕まえ、千曲川から水を汲んで、矢ヶ崎山のかま
ど岩に鍋をかけ、浅間山の噴火から火種をとってシシ鍋をつくりは
じめました。

 大男は軽井沢の離山に座りなおそうと立ち上がったとたん、足を
踏み外し鍋を落としました。汁がこぼれ、一面の草木が枯れて不毛
の地になってしまいました。それ以来この付近では汁のような味が
ある水が湧くといいます。軽井沢の「塩壷温泉」などが塩辛いのは
そのせいだそうな。

 となりの荒船山(最高峰経塚山・1423m)の伝承です。寒い
冬の日、デエラン坊が荒船山に寄りかかり、火をふく浅間山をこた
つがわりに昼寝していましたがあまりの心地よさに大いびき。何千、
何万の雷がいっぺんに鳴りだしたような音が響きます。

 おまけに夜になり冷え込んだためか、ドドーンというクシャミ。
それに刺激され浅間山が大爆発を起こしたといいます。なるほど荒
船山のとも岩から見る浅間山は雄大です。

 高さが約170m、幅600mの大絶壁の上は11月末の季節も
あって寒く、それこそ浅間山の火が欲しいほどです。やがて粉雪が
降り出してきました。暮れなずむ中、下界の車道を走るクルマのラ
イトがきれいです。体が冷えてきました。

 すぐそばの避難小屋に引き上げます。シュラフに潜り込みました
がいかにも寒い。それもそのはず、翌日は荒船山の甲板に当たると
ころの山道は霧氷に包まれ、朝日に当たりキラキラと輝いて迎えて
くれました。

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 また、かつて八ヶ岳と蓼科山は兄妹だったという。デエラン坊は
近くで噴火している浅間山が吹き上げる大岩で八ヶ岳を富士山より
高くしようと、もっこで運びお兄さんの八ヶ岳の上にぶちまけはじ
めました。

 驚いたのは八ヶ岳です。頭の上に土や岩が降ってくるので頭が重
くてやりきれません。「重いよう」泣き叫ぶ八ヶ岳に「それなら軽
くしてやる」と山を八つに砕いてしまいました。

 それを見た妹の蓼科山が大騒ぎ。怒ったデエラン坊は蓼科山を諏
訪湖に放り込んでやるとばかり、蓼科山を抱きかかえ引っこ抜こう
としました。いくらデエラン坊でもそう簡単には引き抜けません。

 う〜んと踏ん張った時、両足が地面にめり込んで大きな穴ができ、
そこに水がたまり池になったのが双子池だという話です。いまはサ
ンショウオがゆったりと浮かんでいます。

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■手長足長

 手長・足長というのも各地の伝説によく出てきます。これは手が
異様に長い手長と、足が長い足長という妖怪ですが、神としてもま
つられています。もともとは中国の外海(四海)に住むという異常
人または神仙で、長臂人長股人の名で中国の古代地理書である「山
海経(さんかいきょう)」という本に出てきます。中国では仙人に
もなっているんですね。

 これが日本に入ってくると名前も手長足長となり、平安宮内裏・
清涼殿荒海の障子に魚を捕る姿で描かれたりして、女房たちを大い
に怖がらせたといいます。しかし手長・足長は不老長寿の神仙に比
定されており、障子に書くということは天皇の長寿、朝廷が長く続
くことを願うあらわれなのだそうです。

 その姿を見ると足の長い足長が、手の長い手長を背負った図で描
かれています。この二人は夫婦だとされる場合もあります。長野県
諏訪市茶臼山に手長神社、同市四賀普門寺に足長神社があります。

 伝説によると手長を背負った足長がそのまま諏訪湖に入って、手
長が魚を捕まえたのだそうです。この2人は手長神社、足長神社そ
れぞれにまつられています。

 手長神社・足長神社にまつられる神は、手長彦神あるいは手名椎
命(てなづちのみこと)・足長彦神あるいは足名椎命(あしなづち
のみこと)という神。「古事記」(八俣の大蛇の項)では夫の足名椎
(あしなづち)・妻の手名椎(てなづち)と夫婦神になっています。
「日本書紀」(巻第一)ででも夫・脚摩乳命(あしなづちのみこと)、
妻・手摩乳命(てなづちのみこと)と書かれています。

 埼玉県川越市の川越氷川神社は手摩乳神、脚摩乳神をまつる神社
です。

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■鳥海山の手長足長

 「古事記」や「日本書紀」では八岐大蛇の項で、あの櫛名田比売
(くしなだひめ)の両親として出てくる手長・足長の神も、どうい
う分けか山の伝説では妖怪・怪物として登場します。東北の名山鳥
海山(ちょうかいさん・2236m)にもこの怪物が登場します。

 鳥海山は裾野が日本海まできれいにのびる秀麗な山。かつて村人
はこの鳥海山に現れる雪形(吹浦口では種蒔き爺)を見て苗代づく
りをはじめ、また農業に必要な水の湧き出る山を作神としてあがめ、
親しみました。その鳥海山に山形側、秋田側それぞれにこんな伝説
があります。

 昔、山形県と秋田県を結ぶ街道は、山形県落伏地区から県境の観
音森を越え、栗山池へ出て、小滝地区へ抜ける道でした。ここは遠
回りだけでなく旅人にとって恐ろしい道でした。当時、鳥海山に「手
長足長」という鬼(悪魔)が棲んでいて、街道を通りかかる人を捕
まえては食べ、里に現れて田畑を荒らしていました。

 鳥海山の大物忌の神はこれを見て、三本足の霊鳥(カラス)をつ
かわし、山に鬼がいて危ないときは「ウヤ」、鬼がいなくて安全な
ときは「ムヤ」と鳴かせました。そこで里人は、三本足のカラスが
「ムヤ」と鳴く日を待って街道を歩いた。このことから山形・秋田
県境、三崎山の関を「有耶無耶の関」というのだという。

文徳天皇のころというから850〜858年(平安時代初めのこ
ろ)になると、天皇の命を受けた慈覚大師が手長足長を退治にやっ
てきました。山形県吹浦に大護摩壇をつくり、火散の修法を行いま
した。21日目(山形側では100日目)になると、大師の祈りが
通じたものか突然大地がゆれ、大音響とともに鳥海山が破れ、手長
足長は山の頂とともに吹き飛びました(秋田県側ではあわてふため
く手長足長に、大師が村人を連れてやまにのぼり四方から火をかけ、
とうとう退治してしまった)。

 この時、悪魔の尾が落ちてきたところが山形県の尾落伏(いまの
落伏地区)になり、吹き飛んだ鳥海山の頂きは、日本海に落ちて飛
島になったということです。

・山形県山形県飽海郡遊佐町と秋田県由利本荘市(旧由利郡鳥海町)
との境 JR羽越本線象潟駅からバス、鉾立停留所下車、さらに歩
いて5時間で鳥海山(2236m)御本社 2万5千分の1地形図
「鳥海山」

・1984(昭和59)年7月30日(日)〜8月5日(日)「朝日連峰・
鳥海山・月山縦走」山岳会例会山行
【ご参考にまで】
・「日本伝説大系」(全15巻別巻2)みずうみ書房

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■会津磐梯山の手長足長

 福島県の会津磐梯山(1819m)にも手長足長の伝説がありま
す。その昔、会津磐梯山に怪物の夫婦がすんでいました。怪物は、
磐梯山と明神ヶ岳に両足を踏ん張って立つ「足長」と、猪苗代湖の
水を手ですくって会津中にばらまくような途方もなく大きい「手長」
という怪物たちでした。怪物は、いたずら好きの乱暴者で雲を呼ん
では会津一帯を真っ暗にしたり、嵐を起こして作物を荒らしたりの
し放題。村人はほとほと困り果てていました。

 そんな時、うわさを聞いて弘法大師空海がやってきました。弘法
大師は一計を案じ、磐梯山の頂上に登り手長足長に会いました。「お
前たちは、何でもできると威張っているようだが本当に何でもでき
るか」「おう、何でもできるぞ!」「それでは、大きくなることがで
きるか」というと、手長足長は見る見る天まで届く大きさになりま
した。

 それを見た大師は「大きくはなれたが、わしの手の平に乗るよう
な小さくはなれまい」。「何を言う。俺たちに出来ないことはない!」
手長足長は、みるみる小さくなって大師の手に乗ってきました。そ
こで弘法大師はすかさず用意していた石の箱に手長足長を押し込み
蓋をしてしまいました。そして呪文を唱え、2度と外には出られな
くしてしまいました。

 「お前たちはいままでさんざん悪いことをしてきたが、神として
磐梯の山に祭ってやるからこれからは、人々のために尽くすのだぞ」
と諭し石の箱を山頂に埋め、磐梯明神として祭りました。空海に救
われた村人は、山の名を磐梯山と改めたということです。いま山頂
には皇高天原命の石碑が建ち、磐梯明神はその下に積まれた石の間
にあります。山頂の肩にある弘法清水と空海の大使像、この伝説が
もとになっています。

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■土蜘蛛

 土蜘蛛(つちぐも)とは古代に朝廷に服従しなかった先住の人た
ちのことを蔑視しての呼び方で、「古事記」の中巻に、「日本書紀」
景行記などの神話や伝説にも登場しています。身長は低いが手や足
は長く、洞くつに住んでいるという。

 また「常陸国風土記」には、これらに人々を土蜘蛛とか八握脛(や
つかはぎ)と呼んでいたとあり、あまねく土窟(つちむろ)を掘り
置きて、常に穴に住み、人来たれなば窟に入りて隠るとし、狼のよ
うな性質と梟(ふくろう)のような心をもっていて、ネズミのよう
に物を盗む、とさんざんです。それはたぶん、水田を耕すことより
狩猟を主として生活する土着の人々の風俗習慣をツチグモにたとえ
たものらしい。

 この人々のイメージが年代を経るにしたがい、妖怪として象徴さ
れるようになり、絵巻に描かれ源頼光の妖怪土蜘蛛退治などに創作
されたのだろうとされています。

 奈良県大和葛城山にも、このあたりの土蜘蛛を葛の蔓で編んだ網
で捕らえたのでこの山を葛城山と呼ぶとの立て札が建っています。
その南、金剛山の東麓・高天集落には蜘蛛窟があります。細い舗装
道路から杉林へ続く小道に導く案内板があります。

 荒れた山道を数十分、直径数mの少しくぼんだ場所があらわれま
した。落ち葉が穴を埋めています。説明板もなく、まわりを見ても
他になにもありません。現実はこんなもの、背中のザックが急に重
く感じました。

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■猫又

 長く生きた猫は妖怪になるといわれ、尾の先が二つに分かれてい
るところから「猫又」とか「猫股」と呼んでいます。また猫又の「ま
た」は、猴(さる)の属であるという話が付け加えられ、山中にい
る怪猫のことをいうようになりました。一名「火車」とも呼ぶそう
です。

 鎌倉時代、藤原定家の「名月記」という本にも、犬くらいの大き
さの猫股が一夜に七、八人を食らい、死者が多くでたと記してあり、
また吉田兼好の「徒然草」(第八十九段)にも「奥山に猫またとい
ふ物、人を食らふなり」と出てきます。

 北アルプス白馬岳の西北西に猫又山(2308m)があります。
「山の伝説・日本アルプス編」(青木純二著)にこんな話が出てい
ます。……元和(げんな)(江戸時代初期)の頃、南の空から真っ
赤な雲が流れ来ました。その色は血のしたたるような赤さで、見る
人の心を恐怖におののかせたといいます。人々は「ただ事ではない」
と噂しあったそうです。

 果たして、黒部峡谷に猫又という怪獣が出現しました。もともと
この猫又という怪獣は富士山に棲み、富士権現に仕えるお使いの老
猫でした。

 ところが、源為朝が富士の巻狩りをした際に身をかくす場所がな
くなって、軍兵を喰い殺して逃げ帰りましたが、「血に汚れた汝を
ここに置くことはならぬ」と富士権現に追放され、黒部峡谷に流転
してきたものだそうです。

 猫又は黒部でも盛んに人を殺し、その残酷さに村人を恐怖のどん
底に陥れました。怪獣は死体をくわえて険しい山や谷を猛虎のよう
な勢いで走り去るという。庄屋と村人が決死の覚悟で代官に注進に
まいります。

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 代官は千人あまりの勢子を出動させ、四方から追い立てて、猫又
退治を行いましたが、怪獣の形相すさまじく思わず立ちすくむ有様。
それでも狩人、勢子たちの威勢に恐れをなした猫又はいずれへか逃
げ去った。怪獣のいた山を人々は猫又山と呼んで怖れた……とあり
ます。猫又山のとなりに「猫ノ踊場」というピークがあります。

 ここには月が美しい夜、どこからくるのか子猫がたくさん集まり、
立ち上がって奇怪な踊りを夜が明けるまで踊りつづけ、山が紫色に
明ける頃になると猫は姿を消してしまうという伝説があります。

 またこの近くに不帰岳(2054m)があって、ここには魔物が
すんでいて猟師や登山者を八つ裂きにすると里人が恐れているとあ
ります。昔からこの頂上に登った人は一人として帰って来ていない
と伝えています。いまはすぐそばに避難小屋も建てられています。

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 ところがこの猫又山の西南、黒部川の左岸、剱岳の北方にも猫又
山(2378m)があります。ここも大猫があらわれ人を襲うとい
う。「続日本の地名」(谷川健一著)によれば、こちらの猫又山の西
側の猫又谷付近は昔から人を襲う野生の猫がいると恐れられ、その
名がつけられたというのです。大猫におそわれた人は戦後になって
も跡をたたなかったそうです。

 日本山岳会「山岳」誌編集委員の南川金一氏は、現地を実際に訪
れ、野生の大猫について何人もの人に話を聞いていますが、みんな
一様にそんな話は初耳だとのこと。

 氏はこの二つの猫又山に登ってみての感想を著書「山岳渉猟」の
中で、「猫又伝説の場所として相応しいのは(黒部川)左岸の猫又
山であろう。一方の猫又山は山があまりにも奥深く、伝説が生じる
ほどに山と人間との接点はなかったであろうと思われるからであ
る。

 その点、(左岸の)猫又山は人里に近く、山と人との係わりが深
かったから伝説も生じやすかったといえるのではないだろうか」と
しています。そして「戦後になっても人を襲うほどの大猫がいたと
いう話は、伝説でなく事実として書かれているだけに、ぜひともそ
の話の出所を示して欲しいものである」としています。

 会津磐梯山の西北の猫魔ヶ岳(1404m)にも怪猫伝説があり
ます。ある時、磐梯の湯治場に穴沢善右衛門という武士が妻を伴っ
て来ていました。善右衛門は釣りが好きで、次第に夢中になり山小
屋の泊まり込むようになりました。

 きょうも妻を湯治場に残し、ひとり山小屋で魚を焼いていました。
すると目の前に数十年ぶりに乳母があらわれました。変だと思いな
がらいろりで焼いていた魚を乳母にやるとむさぼり食っています。

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 ますます怪しんだ善右衛門は、居眠りをしている乳母に刀で斬り
つけました。翌朝になると案の定、乳母は老猫に姿を変えていまし
た。

 ある時、湯治場にいる善右衛門の妻が行方不明になりました。村
人を指揮して探したところ山中の大樹の枝に妻の屍がかかっていま
した。その下に木こりが一人。

 妻を引き下ろすよう命じたところ木こりは代わりに善右衛門の刀
を欲しがりました。断ると木こりはたちまち雄の猫又の姿になって、
雌猫を殺された恨みで妻をさらって逃げ出しました。しかし善右衛
門は怪猫を病魔ヶ岳の洞くつに追いつめ退治して妻の屍を取り戻し
たという。その時、武士の腰に帯びていた刀が猫切丸という名刀だ
ったということです。

 そのほか、江戸中期の説話集「新著聞集」(一巻第十)には紀州
熊野の山中で猪くらいの大猫(猫又)が罠にかかったとか、犬をく
わえていった山猫は尾の先まで3m近くもあったなど古書にもよく
出てきます。

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■山人・怪人

 かつて山の中で、里人とは違う大男に出会ったという話がよくあ
りました。村人に対して山人などと呼んでいたようです。あの柳田
国男も「山の人生」の中で山中に住む人たちに言及し、また鈴木牧
之の「北越雪譜」にある南魚沼郡の池谷村や十日町に大男が現れて
米の飯を欲しがり、やると荷物を背負って送ってくれた話を載せて
います。

 また、「山人外伝資料」では古書から山人の盛衰を五期に分け、
第一期を国津神時代・第二期は鬼時代・第三期は山神時代・第四期
は猿時代・第五期を山人史解明時代としています。そして「山人と
は我々の祖先に逐われて山地に入り込んだ前住民の末である」とし
ています。

 江戸時代後期の「譚海」(津村淙庵)に載っている話です。神奈
川県の箱根に山男というものがいました。裸の上に木の葉や樹皮を
まとい、山奥に住み魚を捕るのを仕事にして市の立つ日に来て、魚
と米を交換して絶壁のようなところを飛ぶように帰っていくとい
う。

 無口でよけいな話をせずどこに住んでいるのか分からなかった。
小田原の城主もこれを知っていて、人に害を加えることもないので
絶対に鉄砲などで撃ってはならないとしていたという。

 また東北・吾妻連峰にも大人(おおひと)というものがいて、「そ
の長(たけ)一丈五六尺、木の葉を綴りて身を蔽(おお)う」(「今
斉諧四」から)。それによると住民は大人を神のように畏敬し酒や
食事を備えるように置いておいた。大人はそれを食べずに包んで持
ち帰るという。

 その他「北越雑記」や「駿河国巡村記」、「視聴草」など古書を挙
げるにいとまがありません。

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▼庚申山と茅ヶ岳

 栃木県足尾の庚申山(1892m)は薬草の豊富な山で昔から知
られていました。江戸末期、武蔵国埼玉郡(埼玉県)の医師・鈴木
弘覚が薬草採りに入山して数日、谷川の岩陰で不思議な親子連れの
怪人が水遊びをしているのを目撃しました。

 長い髪を垂らし腰のまわりは木の葉をつけているばかり。そばに
いた土地の案内人たちと見ていると、やがて3人は木立の中に消え
ていったという。案内人は「30年前、一度彼らを見たことはある
が、その時は子どもはいなかった」と話したという。

 鈴木弘覚はこの不思議なことがあって以来、山に籠もりっぱなし
になってしまったという。明治初年のことでした。この人は一名庚
申山弘覚坊とも呼ばれた篤志家で、明治27年、72歳で没したそ
うです。

 また「日本百名山」の深田久弥終焉の地・茅ヶ岳には、仙人とも
天狗ともつかぬ怪人の話が伝わっています。怪人は茅ヶ岳孫右衛門
と金ヶ岳新左衛門といい「本朝神仙記伝」などにも詳しい。

 孫右衛門は茅ヶ岳西麓の江草地区に住んでいましたが、ある日、
山中で仙人の碁を見ているうち、家に帰ったらすでに3世代もの時
が流れていて知る人が誰もいなくなっていました。

 そこで世を捨てて山に入ってしまったという。それから約200
年たった正徳年間、村人が山中で真っ白な頭髪と頬ひげを胸までた
らし、草の葉や木の皮でつづった着物を着ている孫右衛門を目撃し
た話が古書にあります。

 一方、新左衛門は、いつのころからかこの山に棲み、すでに数百
年。空を飛び、雨風、雷雨など自由にあやつる神通力の持ち主。怒
る時は鬼の形に変わり、それを見た人は死ぬこともあるといいます。

 このふたりが仲が悪いというから面白い。「孫右衛門などは、ま
だまだ自在変化の術など使えない、未熟者だ」といいたい放題とい
うから笑わせます。

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■雪女

 雪女は雪の夜に出るという。雪からの印象から肌が白く、または
白衣を着ているなどの言い伝えが多い。その名前は地方によってい
ろいろで、雪女郎、雪女御などはなかなか艶っぽいですが、雪おん
ば、雪降りばばあともいう地方があるといいます。

 長野県伊那谷では山姥をヤマオンバ、雨の降る夜に出るのをアメ
オンバ、雪の夜に出る妖怪をユキオンバというそうです。このよう
妖怪が話題になったのは室町時代からだというからかなり古い。

 雪の降る夜出るというほかに、岩手県遠野地方では小正月(1月
15日)の夜や、冬の満月の夜に子どもたちをたくさんつれて出て
くるとされています。雪女は夜、山小屋に来て水を欲しがるが水を
くれてはいけないとされ、熱いお茶を出すものだといいます。

 そういえば鳥取県では白弊を振りながら淡雪に載って出てきて
「氷ごせ、湯ごせ」というといいます。水をかけると雪女は大きく
なり、お湯をかけるとたちまち消えてしまうという。

 また、青森県津軽地方の雪女は、正月の元旦に降りてきて最初の
卯(う)(暦の)の日に帰っていくといいます。この女のいる間は、
1日あたり33石分の稲の花がしぼんでしまうといわれ、初卯の日
が遅い年はその間の分だけ不作になるといっています。正月神(年
神)信仰につながるものなのだそうです。

 そのほか、雪女に赤子を抱いてくれと頼まれ、抱いてやると大力
を授かるとか、反対に殺されてしまう話や、吹雪の夜に一晩宿を貸
してやると、翌朝白衣の中に黄金があったという話もあります。

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(第2章終わり)

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